千葉県船橋市と習志野市の両市にまたがるように新日軽(株)船橋製造所(日軽建材工業船橋製造所)があった. 新日軽船橋製造所は,敷地面積 172,000m2 もある大きな工場で,サッシやエクステリア製品の加工などをおこなっていた.
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しかし,建材事業の市場は厳しい状況が続いており,船橋製造所でおこなわれていた鋳造,押出,皮膜部門などの素材部門を富山県高岡市(その後操業停止)と富山県小矢部市の製造所へ移管して,船橋製造所は完全閉鎖された. 現在の,船橋製造所の工場は,ほぼ完全に解体されて更地になっている.
2009年ごろの船橋市習志野4丁目.
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2010年には,生産効率改善(工場廃止など)を目的とし,生産部門の千葉県の船橋製造所,栃木県の藤岡工場,滋賀県の八日市工場,北海道の苫小牧工場を,新たに設立した日軽建材工業(株)として,生産と販売会社を分割した.
1989年ごろの船橋市習志野4丁目.
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1984年(昭和59年)2月日本軽金属グループのビル建材事業などを統合し,新日軽(株)を設立する. 日本軽金属船橋工場の建材部門は,1996年(平成8年)10月に新日軽に譲渡している. 新日軽は,東証第2部に上場<旧T2.5924>していたが,2000年(平成12年)に日軽金の100%子会社となったため,上場廃止としている.
1975年ごろの船橋市習志野4丁目.
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船橋製造所は,日軽アルミ(株)船橋工場として1964年(昭和39年)4月に操業を始めたのが始まりだ. 日軽アルミを,1974年(昭和49年)10月に吸収合併して日本軽金属船橋工場となり,1977年(昭和52年)日本軽金属から住宅建材事業を切り離し,日軽ホクセイ住宅建材(株)を設立. 1978年(昭和53年)に理研軽金属(株)の住宅建材事業を吸収し,新日軽住宅建材(株)となる...
1961年ごろの船橋市習志野4丁目.
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日軽アルミ船橋工場ができる前は,ここは農地だった. 戦後,習志野原に入植した人々は,慣れない農作業と,荒れた赤土のために生活は困窮し,つぎつぎに開拓地を手放していくような状態だった. 千葉県は,入植した農家から土地を買い取る形で,南習志野地区に工業団地を誘致することを1960年(昭和35年)に決めた.
1949年ごろの船橋市習志野4丁目(左). 1948年ごろの船橋市習志野4丁目(右).
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1945年(昭和20年),日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に無条件降伏した. 演習場全設備は連合占領軍の管理下となったが,外地にいた日本人は,つぎつぎに引揚てきていた. だが,敗戦直後の日本は,その日の食事ができない毎日が続いていた. その引揚者の受入地として,習志野原の演習場も習志野開拓として開放された. 当初は,陸軍習志野学校出身者に握られていたが黙認されていた. 1950年(昭和25年)秋,習志野の開拓地は米軍の管轄から大蔵省に移管され,さらに農林省に移管,そして開拓者に正式に払い下げられた.
戦後まもない1947年ごろの船橋市習志野4丁目. 大日本帝国陸軍習志野演習場だった.
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習志野原は,下総国大和田原(別名,小金ヶ原)という広大な原野で,大日本帝国陸軍の大演習が行われていた. 演習場には,日本で唯一の騎兵幹部教育をする陸軍騎兵学校があったが,東京日黒から移転されたものだった. また,近くの習志野市大久保には,騎兵第13連隊から16連隊が駐屯していた. 終戦前から,食糧難のため軍隊のほとんどは,自給自足として芋畑などを作っていた.
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