1972年(昭和47年)5月15日に,沖縄が日本に復帰して,40年を迎えた. 政府と沖縄県は,記念式典を沖縄でおこなった. 船橋市薬円台出身の野田総理大臣も,記念式典に出席し,米軍基地が沖縄の負担になっているとして,これらの基地問題解決に取り組む考えを示した. 沖縄の面積は,国土の 0.6% しかないが,地理的な条件もあり,現在も日本国内の米軍施設の 75% が集中している.
習志野市谷津5丁目の沖縄学生会館(沖縄会館)は,2009年3月末で46年の歴史を閉じた.
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沖縄は,日本と諸外国の間に立ち,振り回されてきた. 例えば,交通だ. 戦前の沖縄は,日本国内と同じく自動車は左側通行であったが,戦後米軍占領下で1945年6月24日から右側通行に変更された. その後,沖縄の日本への復帰後の6年目となる1978年7月30日(ナナサンマル)から,ふたたび左側通行に戻された. 不慣れなため,しばらくはトラブルや事故が相次いだ.
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沖縄は,教育環境も,大きく遅れていた. 戦前の沖縄には,大学や高等学校といった高等教育機関は,ほとんどなかった. 米軍占領下の1947年(昭和22年)に,6-3年制の学制が実施され,米国軍政府教育部の指導により,1950年(昭和25年)に琉球大学が設立された. その後,1972年(昭和47年)5月15日,沖縄の復帰により文部省に移管され国立大学となっている.
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習志野学生会館は,約1000坪もある土地に 72名収容の寮だった. 沖縄復帰前の1963年(昭和38年)に,習志野市谷津5丁目に建設された.沖縄学生会館の土地は,当時の琉球政府が購入し,建物は日本の援助を得て建てられた.沖縄の本土復帰を前に,若い人材を本土の大学などで学んでもらうためだ. その後,沖縄の日本復帰にしたがい,資産は沖縄県に移管されている.
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建設された当時は,まだこの辺は住宅もまばらで,モダンな鉄筋構造の沖縄学生会館の建物しかなかった. その姿から,白亜の館とも呼ばれていた.しかし,建物の老朽化のため閉館し,役目を終えた.
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(2009年10月15日)沖縄学生会館は閉館@習志野市谷津(1)