今から55年前の 1958年(昭和33年)11月,国鉄西船橋駅が開業した. 1960年(昭和35年)4月には,京葉道路船橋海神-之江間が開通. 1960年(昭和35年)10月,前原団地の入居が開始された.
▼1959年(昭和34年)に完成した,旧船橋市庁舎(左). ▼船橋市第8代-11代市長の渡辺三郎(右).
1961年(昭和36年)8月,高根台団地の入居開始. 1969年(昭和44年)6月,東京湾埋立地の若松団地の入居が開始された. 船橋市は,首都東京のベットタウンとして急成長をし,1965年(昭和40年)に 22万だった人口が 30万人を超えた. この高度成長時代に,1959年から船橋市市長を4期(第8代-11代)務めたのが渡邊三郎だ.
▼1961年(昭和36年)ごろの高根台団地(左). ▼1959年(昭和34年)ごろの国鉄西船橋駅(右).
その後を,1975年(昭和50年)9月から引き継いだのが藤代七郎で,2期(第12代-13代)務めた. 船橋市市議を3期,3期目は議長を4年間務めた. その後千葉県県議1期の後,船橋市市長となった. 藤代七郎の父藤代清七は,1954年(昭和29年)4月に船橋市へ編入した船橋市北部の豊富村の村長だった.
▼1984年(昭和59年)ごろの国鉄西船橋駅(左). ▼船橋市第12代-13代市長の藤代七郎(右).
さらに,1981年(昭和56年)から4期(第14代-17代)務めたのが大橋和夫となる. 顔形やメガネが大橋巨泉に似ていることなどから,巨泉の兄ともいわれた. 任期中,海老川と長津川の浸水被害対策,船橋市立医療センターや救急救命センターの開設,ドクターカーシステムの導入,武道センターや船橋アリーナの建設,市立船橋高校の体育科設置など,数かずの事業をおこない,50万都市に向けた基盤をつくった.
▼1988年(昭和63年)ごろの船橋南口駅前の再開発地域(左). ▼船橋市第14代-17代市長の大橋和夫(右).
大橋和夫市長は,間違いなく船橋市への大きな貢献をした. だが,4期という期間は長すぎた. 談合疑惑事件などの汚職で,新聞紙上などをにぎわすこともあり,「船橋市談合疑惑事件の真相と内部からの告発」という暴露本も出ている.
▼船橋市第18-21代市長の藤代孝七.
1997年6月の船橋市市長選で,5選を目指していた大橋和夫に打ち勝ったのが,藤代孝七だった. このときの船橋市長選公開討論会で藤代孝七は,「開かれた清潔な市政をつくること. 大橋市政は16年におよび(市民の)声に耳を傾けない. (新藤代市政は)市民によく見えて納得してもらえる市政が基本スタンス. 当選したら最長でも3期12年まで. 公約は必ず守らなければならない. 市長になっても最長3期12年までを約束する」と発言して,市民の支持を受けたのだった. 藤代孝七の父が,藤代七郎となる.
▼船橋市長選挙のポスター掲示板.
だが,公約に反し,2009年(前回)の船橋市市長選で,「景気低迷の中,安定した市政運営の継続を周囲から求められた」ということを理由に,4選目に出馬,そして当選した. さすがに今回の船橋市市長選の5選目には良心がとがめ,「公約を破ることになるので批判を覚悟で4選出馬したが,その重みを日夜感じていた」と語り,引退を表明した. 藤代孝七は,JR船橋駅南口のフェイス再開発ビルを完成させたが,想定されたテナントが入らず,現在も多額の補助金を出している.
藤代孝七(70歳)は,「(船橋市市長選に)出てもらいたい人はいる」と述べ,後継人に副市長であった松戸徹を指名した...
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▼1959年(昭和34年)に完成した,旧船橋市庁舎(左). ▼船橋市第8代-11代市長の渡辺三郎(右).
1961年(昭和36年)8月,高根台団地の入居開始. 1969年(昭和44年)6月,東京湾埋立地の若松団地の入居が開始された. 船橋市は,首都東京のベットタウンとして急成長をし,1965年(昭和40年)に 22万だった人口が 30万人を超えた. この高度成長時代に,1959年から船橋市市長を4期(第8代-11代)務めたのが渡邊三郎だ.
▼1961年(昭和36年)ごろの高根台団地(左). ▼1959年(昭和34年)ごろの国鉄西船橋駅(右).
その後を,1975年(昭和50年)9月から引き継いだのが藤代七郎で,2期(第12代-13代)務めた. 船橋市市議を3期,3期目は議長を4年間務めた. その後千葉県県議1期の後,船橋市市長となった. 藤代七郎の父藤代清七は,1954年(昭和29年)4月に船橋市へ編入した船橋市北部の豊富村の村長だった.
▼1984年(昭和59年)ごろの国鉄西船橋駅(左). ▼船橋市第12代-13代市長の藤代七郎(右).
さらに,1981年(昭和56年)から4期(第14代-17代)務めたのが大橋和夫となる. 顔形やメガネが大橋巨泉に似ていることなどから,巨泉の兄ともいわれた. 任期中,海老川と長津川の浸水被害対策,船橋市立医療センターや救急救命センターの開設,ドクターカーシステムの導入,武道センターや船橋アリーナの建設,市立船橋高校の体育科設置など,数かずの事業をおこない,50万都市に向けた基盤をつくった.
▼1988年(昭和63年)ごろの船橋南口駅前の再開発地域(左). ▼船橋市第14代-17代市長の大橋和夫(右).
大橋和夫市長は,間違いなく船橋市への大きな貢献をした. だが,4期という期間は長すぎた. 談合疑惑事件などの汚職で,新聞紙上などをにぎわすこともあり,「船橋市談合疑惑事件の真相と内部からの告発」という暴露本も出ている.
▼船橋市第18-21代市長の藤代孝七.
1997年6月の船橋市市長選で,5選を目指していた大橋和夫に打ち勝ったのが,藤代孝七だった. このときの船橋市長選公開討論会で藤代孝七は,「開かれた清潔な市政をつくること. 大橋市政は16年におよび(市民の)声に耳を傾けない. (新藤代市政は)市民によく見えて納得してもらえる市政が基本スタンス. 当選したら最長でも3期12年まで. 公約は必ず守らなければならない. 市長になっても最長3期12年までを約束する」と発言して,市民の支持を受けたのだった. 藤代孝七の父が,藤代七郎となる.
▼船橋市長選挙のポスター掲示板.
だが,公約に反し,2009年(前回)の船橋市市長選で,「景気低迷の中,安定した市政運営の継続を周囲から求められた」ということを理由に,4選目に出馬,そして当選した. さすがに今回の船橋市市長選の5選目には良心がとがめ,「公約を破ることになるので批判を覚悟で4選出馬したが,その重みを日夜感じていた」と語り,引退を表明した. 藤代孝七は,JR船橋駅南口のフェイス再開発ビルを完成させたが,想定されたテナントが入らず,現在も多額の補助金を出している.
藤代孝七(70歳)は,「(船橋市市長選に)出てもらいたい人はいる」と述べ,後継人に副市長であった松戸徹を指名した...
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